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静物画の秘密(国立新美術館)
ウイーン美術史美術館は,訪ねてみたい美術館のひとつだ。ハプスブルグ家の美術コレクションが収蔵されている。ブリューゲルの『雪中の狩人』や『農民の踊り』,ラファエロの『草原の聖母』,フェルメールの『絵画芸術』などがある。
そのウイーン美術史美術館の静物画で,主に,17世紀にフランドル地方やオランダで描かれた作品を集めたのが,今回の美術展である。 『虚栄(ヴァニタス)』の中の髑髏や甲冑や時計など本物をはめ込んだのではないかと思うほど細部の細部に至るまで精密に描き込んでいる。右の『朝食図』に描かれた瑞々しいレモン,牡蛎,葡萄,チェリーなども,見ているだけでよだれが出そうだ。銀の胡椒入れの質感は思わず表面も撫でてみたくなる。 埃をかぶった楽器を描いた作品があって,その楽器に人が触れた指の跡までついているなどなんとも芸が細かい。これらの作品の画家は,きっと極限までの緻密さを競い合ったのだろうか。見る者を驚かすだまし絵的な意図もあったようにも思える。 これらの静物画にどのような秘密があるか。『虚栄(ヴァニタス)』は,その題名から分かるように,誰にでも訪れる死,この世のはかなさを示しているのであろう。カメオの人物は,神聖ローマ帝国皇帝とスペイン王を兼ねたカール5世(カルロス1世)である。絵の右側は,その栄華を表し,左側の消えた蝋燭,髑髏,砂時計などは,ハプスブルグ家の衰退を暗示する。 諸行無常は洋の東西を問わず様々な創作のテーマになるようで,同様のテーマの作品が多かった。『朝食図』も,時計が描かれていることから,描かれた食べ物などの瑞々しさは一時のものであるというメッセージが秘められているとも考えられている。他に展示されていた花の絵もそうだ。移ろいやすいがゆえに美しい,という美意識は日本だけではないのだと思った。 そもそも前提となる歴史や宗教,当時の社会などについての知識がないので,理解がなかなか難しいものがあるが,解説からいくつものトリビアを知ることができ楽しかった。『朝食図』に描かれた食べ物は,当時,医学的に健康によいとされていた食べ合わせだそうだ。 この展覧会の目玉であるベラスケスの『薔薇色の衣裳のマルガリータ王女』は,色彩やタッチも大胆で,他の作品とは異質である。傍らの花の描き方も全く違う。つぎの時代の絵画につながっていくものを感じさせる。解説にしたがって,やや遠くからこの絵を見ると,衣裳や肌,カーテンなどの細密が感じられるのは不思議だ。この絵が描かれた事情や背景を知ると,はかなさを思わせるのも同じである。 #
by oono164935
| 2008-08-18 23:47
陶匠・濱田庄司(日本民藝館)
炎天下の中,アスファルトの照り返しを受けながら,ようやく目的の美術館に着く。館内に入ってほっとするのであるが,汗が引くまでは,ちょっと展示を見始める気にならない。これだけの猛暑では,さすがに美術館巡りもバテてしまう。
日本民藝館は,そんな日でも,冷房だけでなく,館内全体が醸し出す優しい空気が,暑さで消耗したエネルギーを回復させてくれた。柱や梁,手すりや床の木の色がきれいだ。廊下の椅子に座っているとウトウトしてしまった。窓から外を見ると,まだ暑そう。ついつい長居をしてしまう。 濱田庄司は,この日本民藝館の2代目館長で,初代館長である柳宗悦,バーナード・リーチ,河井寛次郎らとともに「民芸運動」を展開した。いまでは民芸品とか民芸風などと普通に使われている「民芸」という言葉は,柳らの造語だそうだ。 私は学生時代,友人に連れられて益子町に行ったことがある。ここが人間国宝の陶芸家,濱田庄司の家だと言われて,門から中をのぞくと,ひとりの老人が,庭に皿を並べていた。まだ黄土色のままだったので窯に入れる前の乾燥のためであろう。特徴のある丸いメガネをしており,本人だとすぐに分かった。その2,3年後に亡くなった。今回は,没後30年の展覧会である。 沖縄の砂糖キビを素材にした「黍文」という文様や釉薬の「流掛」,それに器の形などとてもおおらかである。色合いも柔らかい。皿や花瓶や茶器も,このような展示ではなく,普段の生活で使っていると,きっと愛着が湧いてくるだろう。全体として,やはり,「民芸」という言葉からイメージする優しさ,親しみの感じられる作品である。 もちろん,濱田庄司の作品を日常の生活で使っている人などはほとんどいないだろう。持っている人も裕福な方が多いだろう。それでも,民衆の生活にとけ込んだ美を発見し,また,生活になじむ美を創り出していく「民芸運動」の理念を体現している作品である。その理念は,先日見に行った「バウハウス」とある意味同じではないかと思った。 日本民藝館に展示されている陶器や織物など,郷土色のある古い暮らしの匂いがする。日本に限らず,朝鮮,中国や,イギリスの物もそうである。我々は現代の日常生活の中では和服を着ることはないし,飲み物もペットボトルやマグカップが多い。生活の中の美と言っても,その美意識も変化している。 それでも,陶器などの工芸品を見て,こんな食器を使ってみたいなあと思ったり,なにかほっとした心持ちになるのは事実である。飲食店でも,民芸風の内装のところは多い。居心地のよい雰囲気づくりだろう。我々の中にも古い時代から生活の中で培われた美意識があって,それが反応するのだろうか。「美しい」と感じるとともに「癒されるぅ~~」という感じるのである。 #
by oono164935
| 2008-08-10 22:25
青春のロシア・アヴァンギャルド(Bunkamuraザ・ミュージアム)
-アヴァンギャルド-新しい時代を切り開くイメージや言葉の響き,50代以上の世代には,何となくかっこよさを感じさせる言葉ではないだろうか。それに「青春の」がつく。そんなタイトルや,いささか古くさい,ある「時代」を感じさせるレタリングのポスターが気になっていた美術展だ。
ロシア・アヴァンギャルドというと,このポスターに用いられている作品(農婦,スーパーナチュラリズム)の画家カジミール・マレーヴィチが一番有名で,この展覧会のひとつの柱である。 解説によると,彼はさまざま表現を模索しながら,スプレマティスムという芸術理論に到達し,20世紀美術に大きな影響を与えたということである。正直なところ,難解で分からないが,その到達点で描かれたのがつぎの作品だ。 何か意味のある対象を描くというのではなく,幾何学的な形や色によって与えられる感覚だけの純粋な抽象表現を追求したというのである。音楽に近いのだろうか。もう1点同じような作品があったが,両方とも,突き詰め過ぎと言ったらいいのだろうか,絵画としては,どうも好みには合わない。要するによく分からないのだ。このような様式の作品を描いた時期は短かったようで,同じ抽象表現でも,私はその前後の作品の方が豊かで魅力的だと思う。 「~イズム」「~主義」「~派」という言葉やグループの名前がつぎからつぎへと出てきてその内容はとても理解できない。だが,ロシア革命前後のモスクワを中心として,パリに負けず劣らずさまざまな芸術的な試みがされていたことを知ることができた。ロシア革命の文化的分野を担いながら,スターリンによって潰えてしまったが,カンディンスキーやシャガールをはじめ亡命した芸術家によってヨーロッパやアメリカでその成果が引き継がれた。経歴を見るとデザインや舞台美術で活躍した人も多いようだ。 マレーヴィチは,ロシアに残った。完全な具象画に戻った自画像と妻の肖像画の,悲しげな表情が印象的だった。スターリンの大粛清が始まった後に描かれたものだ。 この展覧会のもうひとつの柱がグルジアの画家ニコ・ピロスマニの作品である。これはよかった。 放浪をしながら居酒屋などの看板を描いて生計を立て,モスクワの芸術運動とは無縁の存在であったが,ロシア・アヴァンギャルドの画家に見いだされ,脚光を浴びた。フランスのアンリ・ルソーのような素朴画家である。のびやかなタッチと独特の色調で,素朴で善良そうな人物や楽しげな宴席を描いている。それから,動物の絵はまるで神の使いのように神秘的だ。 ピロスマニは,人付き合いなども苦手だったようで,稚拙な絵だという批評家の言葉に傷つき,放浪の末,餓死したそうである。また,日本では加藤登紀子が歌った「100万本のバラ」の歌詞の貧乏画家はピロスマニのことだそうだ。フランスの女優に恋心を抱き,自分の絵や家まで売って女優の泊まるホテルの前の広場をバラで埋め尽くした。女優は,どこかの金持ちの戯れだと思って町を去った。そんな数奇な生涯を知って作品を見ると,純粋な魂に切なさも込み上げてくる。 #
by oono164935
| 2008-08-03 09:47
対決-巨匠たちの日本美術(東京国立博物館)
日本美術史の名だたる巨匠の作品が,つぎのようにそれぞれの作風の特徴を対比させながら展示されている。じつに盛りだくさんで見応えがあり,解説を読みながらであると,思った以上に時間がかかる。平日に行ったのであるが,人出も多かった。
■ 運慶 vs 快慶 —人に象る仏の性— ■ 雪舟 vs 雪村 —画趣に秘める禅境— ■ 永徳 vs 等伯 —墨と彩の気韻生動— ■ 長次郎 vs 光悦 —楽碗に競う わび数寄の美— ■ 宗達 vs 光琳 —画想無碍・画才無尽— ■ 仁清 vs 乾山 —彩雅陶から書画陶へ— ■ 円空 vs 木喰 —仏縁世に満ちみつ— ■ 大雅 vs 蕪村 —詩は画の心・画は句の姿— ■ 若冲 vs 蕭白 —画人・画狂・画仙・画魔— ■ 応挙 vs 芦雪 —写生の静・奇想の動— ■ 歌麿 vs 写楽 —憂き世を浮き世に化粧して— ■ 鉄斎 vs 大観 —温故創新の双巨峰— 「対決」と銘打っているが,実際にライバルとして意識していたかどうかは分からない。運慶 vs 快慶のように,同じ師匠に学び同時代に活躍していた者同士,応挙 vs 芦雪のような師弟関係もあれば,雪舟(上の「慧可断臂図」) vs 雪村のように,時代もずれたり,接点があまりなかったと思われる者同士もあるようだ。しかし,このように作品を並べて展示し,それを見比べると作者の創作のスタイルや特徴が浮かび上がってくる。 宗達 vs 光琳もそんな中のひとつ。全体としては,宗達の方が優位だと思うが,上の「竹梅図屏風」は両者の展示作品の中では一番素晴らしいと思った。 仁清 vs 乾山もやはり同じだ(左は乾山の「色絵紅葉図透彫反鉢」)。 ただ,同じ作品を展示しても,見せ方,企画ひとつでずいぶん面白さが違ってくると思った。 大満足の美術展であったが,入替え展示のため,雪舟の「秋冬山水図」,宗達,光琳の「風神雷神図屏風」が見られなかったのはちょっと残念である。もう一度見にいくより他ない。 #
by oono164935
| 2008-07-24 22:10
エミリー・ウングワレー展(国立新美術館)
たて3メートルを超える巨大なキャンバスに描かれた無数の細密な点,混沌の中から,なにか分からないが生命がプチプチと音をたてて生まれ出てきているかのようだ。この作品の題名『カーメ』というのは,ヤムイモの種のことだそうだ。
何の予備知識もなく,この展覧会の絵を見たら,西洋美術の現代抽象絵画作家の作品と思うだろう。エミリー・ウングワレー(1910頃-1996)について,展覧会のホームページには, 《オーストラリア中央の砂漠地帯で,アボリジニの伝統的な生活を送りながら,儀礼のためのボディ・ペインティングや砂絵を描いていたが,1977年からバティック(ろうけつ染め)の制作をはじめ,88年からはカンヴァス画を描きはじめる。その後亡くなるまでのわずか8年の間に3千点とも4千点ともいわれる作品を残した。90年以降はシドニー,メルボルン,ブリスベーンで個展を開催。没後も97年にヴェネツィア・ビエンナーレのオーストラリア代表に選ばれ,98年にはオーストラリア国内を巡回する大回顧展が開催された。》 と紹介されている。 ということは,80歳を超えた女性が,巨大でエネルギッシュな絵を,毎日1点以上を制作していたことになる。彼女は,有名になってからもふるさとのブッシュ地帯の集落を離れることなかった。文字の読み書きもできず,美術に関する情報とも隔絶している。アトリエなども持たず,キャンバスを横に置き,地面に座り込んで,ふるさとの自然やアボリジニの伝統からインスピレーションを受けながら,毎日毎日描き続けたそうだ。 未開の部族で作られた装身具や儀礼のための人形など,「プリミティブアート」と言われている。エミリー・ウングワレーの作品が「プリミティブアート」かというと,違うように思う。前述のとおり,現代の抽象絵画に近い感じだ。部族社会の独自の世界観に根ざしながらも,アクリル絵具とキャンバスを手にしたことによって,「プリミティブアート」と異なる普遍性を持った新しい表現を獲得したように思える。そして,新しいイメージが次々にわき出してきた。それが,高い評価を受け,現代オーストラリアを代表する画家とまで言われるようになったのではないだろうか。 ここにアップしている4点の作品もそれぞれスタイルが異なる。テーマ(それは,ドリーミングだと思う。)は一貫していても,短い間に,作品のスタイルが次々に変化している。「プリミティブアート」にこのような変化はないと思われる。左の作品は,死の2週間前に描いたという最後の作品のひとつだ。なんと,このとき24点もの作品を3日で完成させている。 それにしても,晩年に突然脚光を浴びてからは,当然,注文も殺到し,画商も訪ねて来ただろう。これまで提供したことのない人々に作品を提供することになったのである。ふるさとの自然や暮らしが彼女の創作活動の源泉であり,ライフスタイルを変えず作品を制作し続けたとはいうものの,エミリー・ウングワレーとって,描くことの意味に変化がなかったのだろうか。高い評価をする美術界は,彼女の目にどのように映っていたのだろうか。アボリジニの苦難の歴史と重ね合わせ,ちょっと気になった。 #
by oono164935
| 2008-07-19 21:25
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